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横浜地方裁判所 昭和32年(ワ)5号 判決

原告 渡部清治

被告 須郷金太郎

主文

被告は原告に対し、横浜市南区六ツ川町七十番地の二所在家屋番号同町十八番の四、木造亜鉛葺平家居宅一棟(四戸建)建坪三十二坪の内正面に向つて右側三戸を切断移動した残存部分(一戸分、建坪十坪五合外二階一坪五合)を明渡さなければならない。

原告のその余の請求を棄却する。

訴訟費用は、これを四分し、その三は原告の負担とし、その余は被告の負担とする。

この判決は、原告において被告に対し、金三万円の担保を供するときは、仮に執行することができる。

事実

原告訴訟代理人は、被告は原告に対し、横浜市南区六ツ川町七十番地の二所在家屋番号同町十八番の四、木造亜鉛葺平家居宅一棟(四戸建)建坪三十二坪(以下本件建物という)の内正面に向つて右側三戸を切断移動した残存部分(一戸分、建坪十坪五合、外二階一坪五合)を明渡し、かつ金二十一万千九十円及びこれに対する昭和三十二年一月二十三日以降右金員完済に至るまで年五分の割合による金員の支払をせよ。訴訟費用は被告の負担とするとの判決並びに仮執行の宣言を求め、その請求の原因として、原告は、昭和二十二年九月頃、被告に対し、その所有にかかる本件建物の内正面に向つて左端の一戸を期間を定めず賃貸したが、本件建物の敷地は、池沼を埋立てて宅地としたもので湿地である上、周囲の土地より約一尺程低くなつているため、雨水が床下一面に侵入し、そのため数年前より、本件建物の土台及び床下木材類の朽廃が甚だしく、現状のまま放置するときは、建物自体が倒壊する危険があつたので、建物の保存のためには、その敷地が低湿地で宅地として適さない関係上、早急に建物を周囲の既に地盛をした場所に移動して、右朽廃部分の木材の取替等の修繕をする必要に迫られていた。そこで、原告は、昭和三十年頃より、本件建物を南方十数米の地盛をした場所に移動して、修繕をしようと計画していたが、右工事の完成には約一ケ月を要する見込であつて、工事の性質上その間居住者を一時退去させる必要があつたので、被告に対し、口頭で右工事期間中一時退去されたい旨再三申入れたが、被告は頑としてこれに応じなかつた。

しかして、被告があくまで退去しない以上、本件建物より被告賃借部分を切断して、その余の部分のみを予定の場所に移動して修繕する以外には建物保存の方法はあり得ないので、原告は、昭和三十一年十一月十日付内容証明郵便を以て、被告に対し、被告があくまで退去しない場合には、本件建物より被告賃借部分を切断するの止むなきに至ること及び右切断によつて生ずる損害については被告にその賠償を請求する旨の書面を発し、右書面は翌十一日被告に到着したが、なお被告が退去しないので、原告は、同年十二月七日、被告居住のまま本件建物より被告賃借部分を切断し、被告賃借部分はその場に残置し、その余の部分のみを予定の場所に移動して修繕したが、右残存部分をそのまま放置することはできないので、その保存に必要な修繕をしようとして、同年十二月十二日付内容証明郵便を以て、被告に対し、同郵便到着の日より七日の期間内に、原告において右残存部分に対し、修繕ができるよう処置せよとの催告及び若し被告が右期間内にこれを履行しないときは、直ちに前記賃貸借契約を解除する旨の停止条件付賃貸借契約解除の意思表示の書面を発し、右書面は翌十三日被告に到着したが、被告は右期間内に右催告に応じた履行をしなかつたので、前記賃貸借契約は、同年十二月二十日の経過により解除された。

仮に右賃貸借契約解除の主張が認められないとしても、前記のとおり、本件建物の朽廃は甚だしく、その保存のためには、被告を一時退去させて、建物を移動した上、根本的な修繕をする必要に迫られていたが、原告は、右修繕の実施にあたり、被告が本件建物内で洗濯業を営んでいた関係上、その営業に支障を生じさせないようにするため、昭和三十一年秋頃本件建物より程遠くなく、しかも洗濯場及び乾燥場を兼備して右営業に適する建物を訴外斎藤治子から賃借した上、被告に対し、これを無償で提供して、一時これに転居するよう再三申入れたのにかかわらず、被告は、原告の立場を全く考慮せず頑強にこれを拒否し、遂に原告をして建物保存の必要上、本件建物を切断するの止むなきに立ち至らしめたものであつて、かような被告の態度は、賃貸借における当事者間の信頼関係を破壊し、賃貸借関係の継続を著しく困難にするものであるから、かような事情の存在することは、賃貸借の解約申入についての正当の事由のある場合にあたるものというべきところ、原告は、本件訴状によつて前記賃貸借契約が既に適法に解除されたことを前提として、建物明渡の請求をしたが、若し右解除の主張が認められない場合には、前記賃貸借の解約の申入をする意思をも右訴状によつて表明したものと解すべきであるから、右訴状送達後六ケ月を経過した昭和三十二年七月二十三日前記賃貸借契約は終了した。

原告は、前記のとおり、被告が賃貸物保存行為に対する忍容義務に違反して、一時退去の要求に応じなかつたため、建物保存の必要上、本件建物より被告賃借部分を切断することを余儀なくされ右切断工事の結果、原告は、修繕工事費として金七万三千九十円、電気工事費として金二千円、水道工事費として金三千円、その他雑工事費として金二万五百円、合計九万八千五百九十円を支出し、又本件建物の被告賃借部分は、右切断の当時、建物として金十二万七千五百円相当の価格を有していたところ、切断の結果、取壊す以外に途がなくなつたが、その廃材としての価格は、金一万五千円にすぎないから、右切断によりその差額金十一万二千五百円の損失を生じ、結局原告は、被告の前記忍容義務の違反により、右総計金二十一万千九十円相当の損害を受けた。右は特別の事情によつて生じた損害ではあるけれども、被告は前記のとおり、原告より昭和三十一年十一月十日付内容証明郵便を以て、被告があくまで退去しない場合には、本件建物を切断するの止むなきに至る旨の通告を受けたのであるから、当時原告の一時退去の要求を拒むならば、原告において、建物保存の必要上、本件建物を切断して修繕することを余儀なくされ、前記損害を受けるに至るであろうことを予見していたのであるから、被告は原告に対し、右損害を賠償すべき義務がある。仮にそうでないとしても、原告が本件建物を切断するの止むなきに立ち至つたのは、被告が賃借権を濫用して、原告の一時退去の要求に応じなかつたことによるものであるから、被告は、原告に対し、右損害を賠償すべき義務がある。

よつて、原告は被告に対し、前記残存建物(被告賃借部分)の明渡並びに前記損害金二十一万千九十円及びこれに対する本件訴状送達の翌日である昭和三十二年一月二十三日以降右金員完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求めるため本訴請求に及ぶと述べ、立証として、甲第一、二号証、第三号証の一、二、第四ないし第八号証、第九ないし第十一号証の各一、二、第十二号証の一ないし三、第十三号証の一ないし五、第十四、十五号証、第十六号証の一ないし三、第十七号証の一、二を提出し、証人西野大吉、同神谷芳子、同斎藤治子、同竹内康雄、同結城正克、同小倉義男、同斎藤由雄、同渡辺長太郎、同田辺晃、同武枝ミヨの各証言及び原告本人渡部清治の尋問の結果並びに昭和三十一年十二月二十五日及び昭和三十二年四月二十日になした各検証の結果並びに鑑定人田辺晃の鑑定の結果を援用し、乙第一号証の成立は不知と述べた。

被告訴訟代理人は、原告の請求を棄却する、訴訟費用は原告の負担とするとの判決を求め、答弁として、原告の主張事実中、原告が昭和二十二年九月頃、被告に対しその所有にかかる本件建物の内正面に向つて左端の一戸を期間を定めず賃貸したこと、原告が昭和三十年頃より、再三被告に対し、本件建物の修繕工事期間中一時退去方を要求し、更に昭和三十一年十一月十日付内容証明郵便を以て、その主張のような通告をしたこと、被告が右要求に応じなかつたところ、原告が同年十二月七日、被告居住のまま本件建物より被告賃借部分を切断し右部分をその場に残置し、その余の部分のみを移動して修繕したこと及び原告が昭和三十一年十二月十二日付内容証明郵便を以て、被告に対し、その主張のような催告及び停止条件付契約解除の意思表示の書面を発し、右書面は翌十三日被告に到着したが、被告がその催告期間内に催告に応じた履行をしなかつたことは、いずれもこれを認めるが本件建物の敷地がもと池沼であつたことは知らない。その余の事実は否認する。

昭和三十一年当時、本件建物は、そのままでもなお数年間は居住に差し支えのない状態であつたから、当時修繕の必要はなかつたのであり、仮に修繕をするとしても、建物を約五寸程持ち上げて周囲の土地と同程度の高さにした上、土台の一部を取替える程度の修繕をするならば、今後十五年間は居住することができるのであつて、しかも右の程度の修繕は、居住者が退去しなくても約七日間で完了することができるのである。従つて、原告のしようとする工事は、真に建物の保存に必要な修繕ではなく、建物所有者の気ままな建物移転工事なのであるから、被告がこれを拒んだからといつて、賃貸物保存行為の忍容義務に違反するものではない。

又被告が原告の再三の要求にもかかわらず、本件建物より退去しなかつたのは、被告は、家族五人をかかえて洗濯業を営んで生計を立てているので、たとえ一日でも休業するならば直ちに生活に窮するに至ること、原告の要求どおり、訴外斎藤治子方に転居して同所で営業を続けるとしても、店舗を変えるならば顧客を失い、少くとも一ケ月金二万五千円ないし三万円の減収となるのみならず、その営業設備である遠心分離機等の移転費用に数万円を要し、更に他の場所に移転するとしても、家屋建築費、移転費等に少くとも金十万円を必要とするが差し当り右資金を調達することができなかつたこと及び原告は、本件建物については未だ修繕の必要がないのに、建物の保存に藉口して本件建物を従前の場所より約十間程奥に移動し、しかも家賃を倍額以上の金三千五百円に値上しようとしているのであるが、本件建物を従前よりも更に奥まつた場所に移転されては、殆ど店舗としての効用を失うし、その上家賃を倍額以上に値上げされるならば、被告は到底その生計を維持することができなくなるため、原告の要求に応ずる訳にはいかなかつたこと等の理由によるものであるから、被告が退去の要求に応じなかつたとの一事を以て、前記賃貸借の解約申入につき正当の理由があるとすることはできないと述べ、立証として、乙第一号証を提出し、証人成田キミの証言及び被告本人須郷金太郎の尋問の結果を援用し、甲第一、二号証、第六号証、第九ないし第十一号証の各一、二及び第十二号証の一ないし三の成立を認め、その余の甲号各証の成立は不知と述べた。

理由

原告が昭和二十二年九月頃、被告に対し、その所有にかかる本件建物の内正面に向つて左端の一戸を賃貸したことは、当事者間に争がない。

よつて、先ず原告の右賃貸借契約解除の主張についてみるに、原告は、昭和三十年頃より再三にわたり被告に対し、本件建物の修繕工事期間中一時退去されたい旨申入れたが、被告がこれに応じないので、遂に昭和三十一年十二月七日、被告の居住したまま、本件建物より被告賃借部分を切断し、右部分をその場に残置し、その余の部分のみを予定の場所に移動して修繕したことを及び原告が同年十二月十二日付内容証明郵便を以て被告に対し、その主張のような催告及び停止条件付契約解除の意思表示の書面を発し、右書面は、翌十三日被告に到着したが、被告がその催告期間内に催告に応じた履行をしなかつたことは、いずれも当事者間に争いがなく、成立に争いのない甲第一、二号証並びに証人西野大吉、同神谷芳子、同竹内康雄、同武枝ミヨ、同田辺晃、同成田キミ(証人成田キミの証言中後記認定事実と異なる部分を除く、その部分は信用しない)及び原告本人尋問の結果並びに昭和三十一年十二月二十五日及び昭和三十二年四月二十日の各検証の結果並びに鑑定人田辺晃の鑑定の結果を綜合すれば、本件建物の敷地は、もと池沼であつたものを埋立てて宅地としたもので、低湿地であつたので、原告において、湿気を防止するため、右敷地の周囲の空地一帯に地盛をしたところ、右敷地部分と周囲の土地との間に一尺程度の高低を生じ、大雨の際にはしばしば本件建物の床下一面に浸水したことその上、本件建物はもと横浜市南区中島町にあつたものを昭和二十二三年頃現在地に移築したものであつて、既に建築後相当の年数を経過したため、昭和二十七、八年頃より、土台、床下木材類等の朽廃が甚だしくなり、昭和三十一年当時には、そのまま放置することは建物の保存上とうてい許されない状態だつたので早期に右朽廃部分を修繕する必要があつたこと、右修繕にあたつては、その敷地が低湿地であつたため、そのままでは宅地として適さない関係上、建物を現在位置に置いたまま、右敷地に約一尺程度の地盛をするか又は建物を周囲の地盛をした場所に移動するか、何れかの方法を取らなければならなかつたが、右各工事方法の難易、費用額、工事の結果が建物に及ぼす影響並びに工事中及び工事後における建物居住者の便宜の程度等諸般の事情を綜合勘案すれば、後者の方法によることが、建物所有者及び居住者の双方にとつてより有利であつたこと、そこで、原告は昭和三十年頃から、後者の方法により、本件建物を当時の位置の南方十米余の既に地盛をした場所に移動して修繕をしようと計画していたが、右工事の完成には半月ないし一ケ月の日子を要する見込であつて、工事の性質上その工事期間中居住者を一時退去させる必要があつた(もつとも居住者を退去させずに右工事を実施する方法もない訳ではないが、かような方法では完全な修繕をすることができず、しかも退去させた場合よりも多額の工事費用を要する)ので、被告に対し、一ケ月間程被告賃借部分より退去されたい旨要求したが、被告が頑としてこれに応じなかつたため、かくなる上は、建物の保存のためには、その一部分を切断するも止むを得ないとして、前記のとおり、本件建物より被告賃借部分を切断したものであること及び右切断後、その残存部分(被告賃借部分)もまた、他の部分と同様に、そのまま放置することはできない状態にあるので、その保存のためには被告を一時退去させてこれを修繕する必要があることを認めることができる。

被告本人の尋問の結果及びこれにより真正に成立したものと認め得る乙第一号証中認定に反する部分は信用することができず、他には右認定を左右するに足る証拠はない。

前記認定の事実によれば、原告が本件建物につき、前記の諸工事を実施することは、まさにその保存に必要な行為というべきであつて、しかも右工事の実施にあたつては、被告を一時退去させることも必要かつ止むを得ないものということができる(前記のとおり、被告の退去を求めずして工事を実施することも不可能ではないが、前記の事情を考慮するならば、建物所有者に対し、かような工事方法を取るべきことを期待することはできないものというべきである)し、その退去の期間は一月を出でないことは先に認定した通りであり、且証人斎藤治子の証言により成立を認めうる甲第七号証及び原告本人尋問の結果によれば、原告は被告の立退先として一時使用すべき家屋を提供したことを認めることができるから、かような事情の下においては他にこれを拒否すべき特別の事情のない限り、(この点に関する被告本人尋問の結果は採用できない)被告は、賃貸借を為した目的を達することができないため賃貸借契約の解除を為しうるか否かは格別として(賃貸借契約を解除した場合には被告は賃貸借契約の終了を理由として賃借家屋の明渡義務を生ずることはいうまでもない)民法第六百六条第二項の規定に基き、原告の要求に応じて、本件建物より一時退去し、原告をして右工事の実施を為さしめる義務を負うものというべきである。

而して賃借人の賃貸物保存行為に対する忍容義務は、賃貸借関係における賃借人の義務としては、附随的なものであることは明かであるが、賃借人の賃借物保管義務に関連を有するものであり、これがため賃貸借契約を為した目的を達することができない場合には賃貸人はこれを原因として賃貸借契約を解除することができるものと解するのが相当である。これを本件についてみるに、被告は、原告の再三にわたる一時退去方の要求にもかかわらず、何等首肯し得る理由もないのに頑としてこれに応じなかつたものであり、しかも、原告は、被告があくまでこれに応じないならば、建物の保存に必要な工事は遂にこれをすることができず、そのため本件建物の倒壊を来すに至るべきことは前記認定の事実に照し明らかであるから、右認容義務の違反は、これがため賃貸借契約をなした目的を達することができない場合に当るというべく、原告は、これを理由として賃貸借契約を解除できるものというべく、前記賃貸借契約は、原告の前記契約解除の意思表示により昭和三十一年十二月二十日の経過により解除されたものといわなければならない。

従つて、被告は原告に対し、本件建物の内前記残存部分(被告賃借部分)を明渡すべき義務のあることが明かである。

次に、損害賠償の請求についてみるに、本件建物は、その敷地が低湿地である上、建物自体も建築後既に相当の年数を経過したため、その朽廃が甚だしく、昭和三十一年当時には、そのまま放置するならば数年後には倒壊の危険がある状態であつて、建物の保存上は、なるべく早期にこれを周囲の地盛をした場所に移動して修繕をする必要があり、しかも右移動及び修繕工事にあたつては、その工事期間中、被告が一時退去することが必要であつたが、被告は、原告の再三にわたる退去の要求にもかかわらず、頑としてこれに応じなかつたため、遂に原告は、建物の保存上その一部分を切断するも止むを得ないとして、昭和三十一年十二月七日、被告居住のまま、本件建物より被告賃借部分を切断して、右部分は、その場に残置し、その余の部分のみを予定の場所に移動して修繕をしたことは、前記のとおりであり、又証人西野大吉の証言により真正に成立したものと認め得る甲第十三号証の一、四、五、証人渡辺長太郎の証言により真正に成立したものと認め得る同号証の三、原告本人尋問の結果により真正に成立したものと認め得る甲第十七号証の一、二並びに証人西野大吉、同渡辺長太郎の各証言及び原告本人尋問の結果を綜合すれば、原告は、前記切断行為の結果、切断工事費用及び切断個所の修繕費用として、金六万三千九百九十円を支出し、同額の損害を受けたことを認めることができる。(なお原告は、本件建物の内被告賃借部分は、前記切断の当時金十二万七千五百円相当の価格を有していたところ、切断の後は取壊す以外に方法がなく、その廃材としての価格は金一万五千円にすぎないから、右切断により、その差額金十一万二千五百円の損害を受けた旨主張するところ、前記鑑定の結果によれば、前記切断の直後である昭和三十二年二月当時、前記被告賃借部分は、金八万四千三百七十五円相当の価格を有していたが、当時既に荒廃していて、これに応急的又は本格的な修繕の手を加えない限り、数年以内に取壊す外はなく、その廃材としての価格は金一万三千百円程度にすぎないことを認めることができるが、前認定のとおり、本件建物はその切断の前から、朽廃が甚だしく、切断等の行為がなされなくても、数年後には倒壊する危険があつたという事実を考え合わせるならば、右の損害は、前記切断行為の結果生じたものと断定することはできないから、この点に関する原告の主張は採用しない。)

しかして、家屋の賃借人が賃貸人の為す保存行為につき忍容義務の履行を遅滞したゝめ賃貸人がその賃貸家屋の修繕を為すことができない場合には賃貸人は法律上之を強制する手段を認められていることはいうまでもなく、この間に物価の変動を生じ又は破損の程度が増大し、かような事情のため修繕費の増加を来した場合においてその増加額につき、又この間に破損又は破損の増大を妨止するため必要とする処置を為した場合においてその要した費用につき賃借人が之等の賠償を為すべき義務のあることは明かである。けれども、仮に賃貸家屋の保存上その全部を他に移転する必要がある場合においても、賃貸人は常に賃借人の右忍容義務の不履行に基く損害の発生を妨止し又はその損害額を最少限度に止めるように努力すべきことは信義誠実の原則上明かであるから、賃借人が家屋の一部を占拠してこれを明渡さないからといつて、直ちに賃借人の占拠する部分を切断し、他の部分からその移転を開始するがごときことは、右移転の必要が緊急に差迫つており賃借人の明渡を待つ余裕がないときその他特別の事情により止むことを得ない場合に限り保存上必要な行為として許されるのであり、この場合には賃借人は切断して移転したゝめ余分に要した費用の賠償を為すべき義務があるということができる。

しかるに、本件建物は、昭和三十一年当時既にその朽廃が甚だしく、早期にこれを修繕する必要があつたことは、前認定のとおりであるが前記各検証の結果及び前記鑑定の結果によれば、本件建物は当時被告居住のままでも、或る程度の応急的修繕をするならば、なお数年の間は居住の用に堪え得たものと認めることができるのであるから、原告としては直ちに建物を切断する如き異常な行為に出ることなく、単に被告の前記忍容義務の履行として又はその不履行を理由として賃貸借契約を解除した上建物の明渡を求め法律上之を強制する手段を取つたとしても、なお遅きに失するということはなかつたものということができる。それ故原告の前記切断行為は、同人において建物の修繕を急ぐ余り、他の適切な手段をとることなくなされた不相当な行為という外はなく、右切断の結果生じた前記損害の発生はむしろ原告において自ら招いたものというべきで、被告はその賠償の責に任しないものと解するのが相当であり、原告の本訴請求中被告に対し前記損害の賠償を求める部分は理由がない。

以上の次第で、原告の本訴請求は、本件建物の内前記残存部分(被告賃借部分)の明渡を求める限度において正当であるからこれを認容し、その余はこれを棄却すべきである。

よつて、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九十二条本文、仮執行の宣言につき同法第百九十六条第一項を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 松尾巖 高沢廣茂 松岡登)

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